A MASTER STORYTELLER!
~The New York Times
THE KING OF KIMONO COMEDY!
~REUTERS
ふと目についた、とある新聞記事。
この出会いが、全ての始まりでした…
PR/BROADWAY PRODUCER
ジョー・トレンタコスタ
クリスティーナ・ブラウン・フィッシャー著
2020年6月17日発行
2020年9月2日更新
「戦争」を題材に、これまで多くを語られることのなかったエピソードを記録するニューヨークタイムズのシリーズ「Beyond the World War II We Know」。最新記事には、海外に派遣された黒人軍人の最大部隊【第6888中央郵便大隊】が描かれていた。
1945年1月、陸軍の若い将校たちを乗せたC-54貨物機は、戦火のヨーロッパに向けてワシントンの航空輸送司令部ターミナルを出発した。その乗客の中にいたのは、26歳の少佐チャリティ・アダムス。戦場に派遣されたアフリカ系アメリカ人初の女子陸軍司令官として戦地に赴いていた。飛行中に開けた「秘密」と書かれた命令書には目的地だけが記され、詳細は地上に降りるまで説明されることはなかった。
それから数週間。アダムスは英国バーミンガムの吹き曝しのパレードフィールドに立ち、カーキ色のスカートの制服を着た数百人の黒人兵士の隊列を前で演説をする。855人になる女性兵士の大隊の指揮を任されていたのだ。その855人の女性兵士達は、11日間もの間、魚雷とドイツのUボートをかわしながらアメリカへの海路を進み、その疲労は限界に達していたのだった。
新設となる【第6888中央郵便大隊】の任務は、華やかでも、スリリングなものでもない。その仕事は過酷であり、任務時間も長く、空襲で睡眠不足になりがちだ。英国に召集された郵便物の未着分を整理することが仕事だが、戦争が最高潮に達したときの郵便は士気を高めるために必要不可欠なため、その配達は、物流上の大きな課題となっていた。
扱う郵便物の数は、1700万通を超え、連合軍兵士宛ての手紙や小包が格納庫に無造作に積まれていた。
1943年、アイオワ州フォート・デモインにある最初のWAAC訓練センターで部隊を鼓舞するアダムス大尉
しかし、アダムスは、自分たちが失敗するように仕組まれていると信じていた。シックス・トリプル・エイトが結成される前は、黒人女性だけで構成される部隊が海外に赴任し、そのような重大な任務を任されるとは、想像もできないことだった。シックス・トリプル・エイトは、黒人女性が軍隊にもたらす価値を見極めるための実験、つまり合否テストだった。
大統領夫人のエレノア・ルーズベルトを含む公民権運動家たちからの長年にわたる不屈の圧力は、陸軍省を説得して彼女たちにチャンスを与えたが、彼女たちを隊列に加えることに強く反対する人々は、彼女たちが失敗するのを見ることで正当性を証明することを期待していたのである。
「世間の目は、私たちの行動や成績が少しでも悪くなるのを待っているのです」と、アダムスは後に回顧録で語っている。彼女は、単に仕事をこなすだけでは十分でないことを知っていた。シックス・トリプル・エイトは、テストに合格するだけでなく、アダムスが書いているように、「外国の戦場に送られる最高のWACユニット」であることを証明する必要があった」。
1942年夏、新しく結成された女性陸軍補助部隊(W.A.A.C.)が、40人の黒人女性を初の士官候補生として受け入れると発表したのです。黒人の市民指導者たちは、アフリカ系アメリカ人の男女に兵役に志願し、文字通り海外で平等な権利を求めて戦うよう呼びかけていた。
しかし、人種差別的内容が含まれるジム・クロウ法の恣意的な制約が国家の安全の問題にも適用されていた。
W.A.A.C.将校コースの最後を飾る式典で、アダムズは陸軍少尉に相当する第三士官に任命さた。彼女の名前が呼ばれる前に、白人の候補者たちが壇上へ上がるのを見届け、正式に黒人女性初の士官候補者となったのである。
従軍慰安婦と、大隊のレクリエーション活動全般を担当したミルドレッド・D・カーター少佐(右)
郵便物を仕分けるアニー・ブレイスフル少 (佐)
シックストリプルエイトのエリザベス・バーカー・ジョンソンは、ライナ州エルキンの自宅玄関に陸軍婦人補導隊のパンフレットが届くまで、兵役という選択が可能であるということを知らなかった。そのパンフレットには、アンクルサムがこちらを指でさし「あなたを必要としています 」と書かれており、それを読み終えて彼女は、兵役という選択を決めたのだった。
ケンタッキー州キャンプ・ブレキンリッジで基礎訓練を受け、彼女はトラックの運転手となる。1940年代、この仕事にアフリカ系アメリカ人女性が就くことは一般的ではなかったが、指揮官の中にアフリカ系アメリカ人の配属を拒否する者がいたとしても、多くの黒人女性兵士にとって、他と比べて陸軍は抑圧的ではないとされたのだった。
そんな彼女たちの仕事は、掃除や物資の運搬など下働きがほとんどだったという。
対して、白人の女性兵士は、軍団の創設後すぐにヨーロッパと太平洋に配備されるようになるが、海外への配属は通常、選択肢にはなかった。
アメリカ軍は複数の大陸に広がっており、前線の指揮官たちは制度化された人種差別の落とし穴に気づき始めていた。ドワイト・D・アイゼンハワー元帥は、米国の人種的崩壊を反映した軍隊を望んでいたのだろう。
1942年8月、アイゼンハワー元帥はロンドンで記者団に対し、「我々は黒人の部隊に軍における平等な地位を与えており、その数は全人口に占める割合に見合ったものとなっている」と述べた。しかし、アイゼンハワーは、性別に関してはあまり進歩的ではなく、同じ記者会見で、女性陸軍補助部隊の黒人隊員をイギリスに派遣する計画を発表したのである。それは、車の運転や秘書業務などの任務を遂行し、またイギリスに配備されている何千人もの黒人部隊に交友を提供するためためであった。
フランスのルーアンで、大隊の新しいスナックバーのオープニングで、アダムス少佐にソーダを提供するFreda le Beau少尉
イギリスの食堂にて、シックス・トリプル・エイトのメンバー
1944年末、W.A.A.C. がWomen's Army Corps(WAC)と改称され、現役陸軍に正式に吸収されてから1年以上が経過するまで、黒人軍人の大規模部隊を配備する計画が再び真剣に浮上することはなかった。
この時、事態がさらに切迫しており、ドイツ軍は連合軍の戦線を分断するためにアルデンヌの森を突破し集中反撃に出る。
「バルジの戦い」と呼ばれるこの戦いは5週間にわたって繰り広げられ、アメリカ軍に大きな打撃を与える。約19,000人のG.I.が死亡し、数万人が負傷、捕虜、行方不明となった。
死と隣り合わせの塹壕の中で、兵士たちは故郷の愛する人たちからの知らせを待ち望む…。
そんな頃、陸軍省は、兵士に郵便物を届けると同時に、黒人女性の戦争参加を認めるという機会を得た。同時期、アダムスは少佐に昇格し、様々な管理・指導の役割を担い、デモイン基地で新兵の訓練中、司令官より、ヨーロッパでの任務をどう思うかと尋ねられる。
自分が海外で部隊を率いるのは無理ではないか、と躊躇するが、その不安も現地に着く頃には消えていたようだ。任務完了までの期間は6カ月。【シックス・トリプル・エイト】は3ヶ月で完了した。
終戦から2ヵ月後の1945年11月、フランスで郵便物を仕分ける六三八と民間の郵便局員たち
1945年の冬、バトル・オブ・ブリテンで1,800トン以上の弾薬が投下されバーミンガムは傷だらけとなった。【シックス・トリプル・エイト】は、街のはずれにある爆撃を受けた学校に輸送され、窓はドイツ空軍に見つからないようにと黒く塗られ、暖房も光もない。建物は800人以上の下士官兵の兵舎であると同時に、彼らの仕事場でもあり、その常的な作業については、まだ分からないことがたくさんあった。
大隊は4つの郵便部隊に分かれ、それぞれ任務を分担する。彼女たちは、週7日、8時間の交代制で24時間働く。各シフトは、ヨーロッパに散らばる部隊宛ての約6万5千通の郵便物を仕分け、処理した。手紙や小包には、シリアルナンバーなどの重要な識別情報が記載されていないことが多く、多くの兵士が同姓同名であるため、受取人を特定することが非常に困難だった。ヨーロッパ戦線には7,500人以上のロバート・スミスがいたという。
仕事量の多さに最初はショックを受けたが、やがて集団的な決意に変わっていった。【シックス・トリプル・エイト】はヨーロッパ戦場で最も速く、最も信頼できる郵便局となく。「郵便がなければ士気が下がる」というのが、非公式とは言え、彼女たちの「モットー」だったのだ。
数年後、アダムスの下で働いた女性たちは、部隊の健全性を守るため、アダムスが任務以上のことを行い、自分たちの全面的な支持を得たのかを語るようになる。
例えば、あるアメリカの将軍がバーミンガムに突然視察に来た時のこと。その将軍が参加者の少なさを訴えるとアダムスは「大隊の3分の1は仕事で忙しく、残りの3分の1は寝ている必要がある」と説明した。将軍が「このままではクビになるぞ。白人の中尉を送り込み、この部隊の運営方法を教えてやる」と脅すものの、アダムスは動じることなく、「私の屍を越えてゆけ」と答えた。 将軍は軍法会議にかけようとるつも、結局は引き下がり彼女はそのまま指揮を執り続けたと言う。
また、ロンドンで休暇中の【シックス・トリプル・エイト】のため、隔離されたホテルを用意するが、それを理由に赤十字社と衝突をする。赤十字社は、黒人の従軍慰安婦が白人の兵士や民間人と交流することを心配しており、「黒人の女の子は、自分たちだけのホテルがあった方が幸せだろう」とアダムスに提案するが、アダムスの勧めもり、そのホテルには部隊の誰もが泊まることはなかった。その代わり、アダムスはロンドン駐在の黒人部隊と連携し、兵士が統合されたホテルにしか泊まらないようにと配慮したという。
その結果、アダムスは小さくも、確かな勝利を収めたのである。「私たちが手にしたのは、何らかの形で人種的偏見の犠牲になってきた大人のニグロ女性の大集団だった」と、その後の回顧録に書いている。「これは、共通の目的のために共に立ち上がる一つの機会だったのだから」。
1945年5月のドイツ降伏後、「シックス・トリプル・エイト」はフランスに送られた。戦後、非戦闘的な軍事作戦が続く中、郵便の詰まりを解消するためにルーアン市に召集されたのである。その時、自動車事故で3人の隊員を失うという悲劇が起こる。メリー・バンクストン、メリー・バーロウ、ドロレス・ブラウンの3人。社内で「3人のB」と呼ばれた女性たちだった。
アダムスは、この3人をきちんと埋葬してあげたいと、入隊前に霊安室で働いていた何人かの隊員とともに、準備を進め、葬儀は病院の礼拝堂にて、部隊が集めた募金で賄われた。このバンクストン、バーロウ、ブラウンの3人は、ノルマンディーのアメリカ人墓地に埋葬されたわずか4人の女性のうちの3人となった。
1945年5月、フランス・ルーアンの市場で火あぶりにされたジョーン・オブ・アルクを讃えるパレードに参加する第6888大隊
1945年12月、アダムスは【シックス・トリプル・エイト】の大部分とともに米国に帰港した。同月、陸軍はアダムスを中佐に昇格させ、アフリカ系アメリカ人女性として初めて中佐の地位に就く。翌年には退役し、大学院を卒業後、退役軍人局や大学の学部長を務めた。
「人種間の調和、黒人の受容と機会に関する問題は、まだ解決されていなかった」と回顧録に書いている。「しかし、これらは私が民間人として解決に貢献できる問題だった」。
結婚して、夫が医学部に通う中、スイスではユング心理学を学び、ドイツ語を学みながら数年を過ごす。その後、チャリティ・アダムス・アーリーは残りの人生を、オハイオ州デイトンの地域社会のリーダー、活動家として、その類稀なる才能と精力を人種的正義の問題に注いだ。
黒人兵士が海外で多大な犠牲を払ったにもかかわらず、軍隊が正式に人種差別撤廃に踏み切ったのは1948年になってからだった。国全体が倣うには、そこからさらに20年の歳月を要し、そのプロセスはいまだ完了にはほど遠い。部隊として【シックス・トリプル・エイト】が第二次世界大戦中にした貢献に対し、正式な評価を受けるまでには、さらに50年もの月日が経過している。
2019年、陸軍は同大隊に功労部隊表彰を授与。【シックス・トリプル・エイト】の数少ない生存メンバーの1人であるレナ・キング(97)は、「自分たちのしたことが特別だと感じられることはなかった」と言う。パレードもない。ただ、家族のもとに帰るだけだった、と。
これが多くの【シックス・トリプル・エイト】の退役軍人たちの物語の結末だった。
アダムスが2002年1月に亡くなった際、彼女の家族は儀仗兵を要請。しかし、昨今のアフガニスタン侵攻で手薄になったため陸軍は断った。しかし空軍の将軍が彼女の死を知り葬儀に儀仗兵を提供することを申し出たという。
陸軍と、女性を中心とした空軍の2つの儀仗隊【Six Triple Eight】
その司令官であり、アメリカ軍を海外で率いた初の黒人女性、アダムスを葬ったのだった。
記者
クリスティーナ・ブラウン・フィッシャー
退役軍人。エミー賞を受賞した放送局のニュース・ジャーナリスト。MSNBCとNBCニュースのアンカーと特派員を務め、メディアネットワークArise TVのニュース、政治、女性のライフスタイル番組「Our Take」の司会とプロデューサーを務めていた。司法と退役軍人の問題を担当し、心的外傷後ストレス障害や外傷性脳損傷など、健康や精神衛生について幅広く報道している。
米空軍に入隊、その後ラジオ/テレビの世界に入り、コロンビア大学ジャーナリズム大学院でジャーナリズムの修士号を取得。全米テレビ芸術科学アカデミー、全米黒人ジャーナリスト協会、映画俳優組合、職業ジャーナリスト協会、メディア&エンターテインメントの退役軍人のメンバーである。